『鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言』というドキュメンタリーを見ました。
学生の頃、『木に学べ』を読んで衝撃を受け、それと同じようにガツンと殴られるような感覚があり、
自分の仕事を振り返り、また背筋を正される思いをしました。
平成の世は、偉大な人を無くしたとも、改めて感じました。
西岡常一とは、「最後の宮大工」と呼ばれた法隆寺の宮大工棟梁で、
法隆寺の解体修理、薬師寺金堂と西塔の再建など、歴史に残る仕事を手がけた人物です。
鉄骨を使い補強しろやら、建築基準法に則って耐震のためにコンクリートを使用しろという
役人や学者たちと真っ向から対立。
なぜならヒノキの耐用年数は二千年、鉄は百年。
「鉄を入れたらそこから腐る」と。
妥協せずに持論を通す強さは、ただの意地や偏屈ではなく、
自身の努力と、経験と、ひたすら木と向き合ってきたから分かる確信。
ドキュメンタリーで紹介されていた、法隆寺宮大工に受け継がれてきた口伝がすごい。
現代に通じる仕事や組織におけるリーダー論、マネジメント論が凝縮されています。
一、神仏をあがめずして社頭伽藍を口にすべからず
一、伽藍の造営には、四神相応に地を選べ
一、堂塔建立の用材は木を買わず山を買え
一、木は生長の方位のまま使え、東西南北はその方位のままに
一、堂塔の木組みは、寸法で組まず木の癖で組め
一、木の癖組は工人たちの心組み
一、工人たちの心組みは匠長が工人らへの思いやり
一、百工あらば百念あり、一つに統ぶるは、匠長の器量なり、これを正と云う
一、百輪一つに止める器量なき者は謹み惧れて匠長の座を去れ
一、諸諸の技法は、一日にして成らず。祖神たちの神徳の恵なり、祖神忘れるべからず
「木を買わずに山を買え」というのは、
木は育った環境によって、それぞれ癖を持っているから、
それを見抜き、活かすためには、伐採された木ではなく、木の育っている環境を知る必要がある。
また、南風を受ける環境にある木はそれによってねじれたり、反ったりする癖を持っている。
建築する際も山で育った方位で木を組んでいく必要がある。ということ。
これって、究極のマネージメント。
ここまで丁寧に下調べをし、見極めることで、1000年のこる仕事ができるんだなぁ。
また、
「百工あらば百念あり、一つに統ぶるは、匠長の器量なり」
それができなければ、匠長(棟梁)の器ではないから、謹み畏れて座を辞しなさい、とも。
リーダーはかくあるべし、という潔さと覚悟が感じられます。
内弟子である小川三夫棟梁のエピソードからもわかるように、西岡棟梁は弟子に教えることはしませんでした。
「教えたら甘えが出る」と。
弟子はひたすら見て学ぶ。頭で理解するのではなく、体で体感していく。
「育てる」のではなく、「育つ」環境を用意する。
今の多くの組織に欠けているもののような気がします。
西岡棟梁は若かりし頃、宮大工の仕事がないときにも民家を手がけることは一切なく、
農作物を作って生活していたそうです。
また、晩年になって薬師寺再建に関わっているときには、
体力も若い時のようにないし、辞めたいけどそれも出来ないだろうから給料を半分にしてくれ、と薬師寺に申し出たり、
講演に出かけても「自分は薬師寺からお給料もらってるから」と、講演料はすべてお堂の復興に寄付したなど
無理無欲の人であったエピソードにも心打たれます。
ドキュメンタリー最後は、西岡棟梁の言葉で結ばれています。
恐れずに、棟梁は間違いも全部腹を切るんやから、思い切って仕事をやれ。思い切った仕事を。
合理的なことを考えずに、時間をかけてもええから、本当のことを、仕事をやってほしい。ごまかしやなしに、ほんまの仕事をやってもらいたい。そういうふうに思います。
Photo by kanjiroushi