アイデアを出すことにコンプレックスを抱えている人も多いようですが、
「今までなかった」新しい発想とか、サービスとか、「新発見」とか、
厳密にはそんなものは存在しないんじゃないかと思います。
アイデアや発想力、着眼点って、誰でも身につけることができるもの。
その方法について、カラクリについて書いてみます。
単刀直入にいえば、パクリ+α。
もしくは、既存の知識×別のエッセンス。なんです。
例として、仏像研究の話ですが・・・
かれこれ5~6年前になりますが、共同通信社さんで
『へー、そーなんだ!仏像は』 という記事を連載させていただきました。
仏像の「へそ」をみると、あんなことやこんなことが分かるんですよ~ という内容。
(へーそーなんだ、へそなんだ、ってことで。ダジャレです)
「仏像のへそなんて、よくそんなとこに気が付きますね!」
「アイデアマン」
「視点が人と違う」
などの賛辞(?)を各方面からいただいて、
「えへへ、まぁね。」なんて言って偉ぶっていたのですが、私がアイデアマンかというと、そんなことないんです。
連載の初回に書きましたが、私がへそに「気づいた」きっかけは、
東京国立博物館の特別展で、滋賀・向源寺の十一面観音立像をみたときでした。
向源寺の十一面といえば、平安時代の作品で、国宝に指定されている素晴らしく美しい仏像です。
わざわざ湖北まで行って、薄暗い収蔵庫の中で拝観したこともあるし、
図録でも何度も何度も見ていました。
だけど、特別展でスポットライトを浴びる立ち姿を見たとき、
初めてこの仏像がもつ「へそ」に気付いたのです。
世にも美しいへそに魅了されたのです・・・!(変っっっ)
と同時に、別の知識が脳裏によぎりました。
それは、水野敬三郎先生が上梓された「快慶作品の検討」という論文。
鎌倉時代の著名な仏師に快慶という人がいます。
水野先生は「耳の彫り方に個人的な癖がでる」とされて、
快慶の作といわれていた仏像の耳を比較して、本当に快慶の作品か、再検討を加えたのです。
さらに元をたどると、水野先生は「モレッリ法」を応用しています。
19世紀のイタリアの美術史家にジョヴァンニ・モレッリという人がいまして、
医者から政治家に転じたのちに美術史の研究を始めるという奇特な人なんですが、
モレッリは、絵画作品に描かれた人物の耳や指など、
小さく目立たない部分に画家の癖や様式が表れると言い、それによる作者決定を試みました。
作家が自分でも意識しないところに、個人の特徴が明白に表れると。
これを「モレッリ法」と言います。
水野先生の新しい成果は、モレッリ法×快慶作品=「快慶作品の検討」という発想。
並べるのもおこがましいのですが、私の成果は、
水野先生の「快慶作品の検討」×仏像のへそ にあったのです。
ちなみに、後日知ったのですが、
児島喜久雄先生という西洋美術史研究の一人者が、『古代彫刻の臍』という著書のなかで、
西洋の古代彫刻にある臍について検討されています。
「臍でも親切に観照すれば個人様式が十分感じられる」って。
そういう意味では、私の着眼は『古代彫刻の臍』+仏像のへそになります。
で、仏像のへそに魅了された私は、その日以来、仏像のへそが気になって仕方がなくなりました。
仏像のへそばかり切り取ったデータを、何百体分も集めて。
そうして日々、へそばかり見ていると、時代性や地域性によって違いがあることに気づきます。
あるアイデアの一部分を切り取って、違う要素を貼り付けて、
そこに多くの事例を集めて出来たものが、
人が結果だけみると「よくこんなこと思いつくね・・・!」というものになります。
アイデアや着眼なんて、私が知る限りそんなものです。
これって、研究だけではなく、仕事の創り方にも共通すると思います。
今、世の中にある既存のアイデアや知識を、できるだけ多く知っておくこと。
そうすることで引き出しの中身が増えます。
また、一見、関係なさそうな物事にも応用できる法則があるので、
「自分の領域に何かパクれないか」と好奇心をもって見ること。
そして、そのアイデアの火種を温めすぎるのではなくて、
少しずつ形にしてみることが何より大事なんだと思います。