それはただの職業。東洋哲学的にいうと。

むかし書いたブログエントリからの引用です。

 

大正~昭和期の日本画家に、村上華岳という人物がいます。

インド的な顔立ちと官能的な菩薩を描く作品が多くあり、とても好きな画家なんですが、

華岳が出した『画論』という本があり、人間が生きる上での真理を鋭く見抜いた内容です。

私にとって画家であることなどはどうでもいゝのです。(中略)

人間が生きてゐる目的は何にあるか

私は未だはっきり言ふことは出来ませんが

一番大切なことは世界の本体を掴み

宇宙の真諦に達することにあると信じます。

ですから私が絵を描くのもその本体を掴む道の修行に過ぎません。

 

村上華岳『画論』(中央公論美術出版、昭和37年)p,43「制作は密室の祈り」

 

宇宙の真諦に達することができれば、絵なんか描けなくともいい。

「生命の目的を果し、生活の意味を実現し、そして大きな宇宙の意志と一つに融合すること」(p,46)

が画家という職業の先にある、究極の目標だといいます。

これは仏教的な考え方に見えますが、実は東洋的というか東アジア的な考え方なんだと思います。

 

たとえば、中国の木鶏の故事。

闘鶏を育てるのに、鶏は初めのうちは虚勢をはり、相手を意識して闘争心をもっていたのですが、

トレーニングを重ねるうちについには木彫りの鶏のようになり、動じず、

他の鶏は逃げてしまう…という話。

自分の強さを誇示しているうちは、まだまだ青い。ということですね。

冨谷至さんの『四字熟語の中国史』(岩波書店、2012年) にわかりやすく紹介されています。

中島敦の『名人伝』も、同じようなことを伝えています。

 

道の会得とは、自己そのものが無となった状態。

その道を究めるということは、すなわち「無為自然の境地への到達」を意味します。

中国に仏教が入ってきたとき、

仏教の「空」の思想は、老荘思想の「道」と同様のものとして理解されたのだから、

かぶって当然といえば当然ですが。

 

話を『画論』に戻して。

華岳の言う「生命の目的」と、「無為自然」は相反しないかという疑問が残るのですが、

何年後の目的、とか、人生の目的、とかのレイヤーではなく、

生命の目的というところまで俯瞰して自らの人生をとらえたら、

無為自然の境地にいくしかなくなるのか。

 

『画論』を読んでいると、華岳の葛藤が見え隠れします。

職業画家に対する抵抗。

真の画家でいるためにどのような態度でいるべきか。

どう芸術と向き合うべきか。

 

生活のため、お金のため、物欲のため、あるいは自己の虚栄心のため。

妥協をしている人間が多く、

それに気づいて内的葛藤をもつ人はまだしも、感じることすらない人間が多い世の中で、

華岳のように真剣に人生と向き合い、考え抜く姿勢には感銘を受けます。

真理を追究せず、鈍感な人間ほど出世しやすいのかもしれないんだとも思います。

 

中国の歴史書、『史記』儒林伝にも「曲学阿世」(学を曲げ、世におもねる)という言葉が出てきます。

学問上の真理を曲げて、権力者や世間に気に入られるような言動をすることです。

自己の頭の中を言葉にすれば偽りになる。表現すれば何かが違う。

文章を書く人や作品を作る人は、少なからずそのような苦しさを感じた経験があるのではないでしょうか。

 

華岳の言葉。

我々は一面のみを見るとき、感情に捉はれる時には雄弁になるが、

両面を見、更にこれを超越した意識に達するとき自然沈黙の外ない。

 

即物的、表層的な物の見方や出来事が多い中で、

本を通じて華岳と対話することは、視野を広げ、心を軽やかにしてくれる経験です。