Amazonに「お坊さん便」というのが出品されていて、物議を醸しています。
お坊さん便 http://obousan.minrevi.jp/
お坊さんネット手配「中止を」 アマゾンに仏教会要請へ
ネット通販大手のアマゾンジャパンで申し込むことができる僧侶の手配サービスが始まった。このサービスが「宗教行為を商品化している」として、全国の主要宗派などでつくる全日本仏教会(全仏)が年明け、米アマゾン本社に対して文書でサイト掲載の中止を申し入れることが分かった。(朝日新聞デジタルより引用)
それは日本的なカルチャーの作り方
僧侶手配サービス。
これをみたとき、それが良いとか悪いとかいうことよりも、いかにも日本人的だなと思いました。
たしかに宗教性は希薄になってしまうけれど、カルチャーとしてみたとき、
日本特有の文化形成能力の表れのように思います。
物事を柔軟に受容する力と、それを時代や都合にあわせて変容する力。
それは、古代からずっと変わらない部分のようにも思います。
だから、お坊さん便もひとつの時代の流れに則ったカルチャーだと思えば、
悪いことではないと思うんですよ。
むしろ、お坊さんが教義を伝えるための方便として
上手く使うことができればいいわけで。
ただ、そもそも仏教って何?
何でお坊さんに拝んでもらう必要があるわけ?
って考えない人が増えているんだとしたら、そこに危機感を感じます。
宗教という人間の精神活動の土台をつくる部分の希薄さが、
今日の複雑化した国際社会において、日本の決定的な弱点のようにも感じるのです。
司馬遼太郎の日本人論
NHKスペシャル司馬遼太郎 思索紀行「この国のかたち」の内容は
身の引き締まる思いがしました。
「名こそ惜しけれ」という武士の精神が日本人の「公の意識」につながっている。
名こそ惜しけれというのは、何か大事なものを各人が持っていて
それを持ち寄って「公」のものをつくる。
それがなければ、本当の意味での公意識が出てきようがない。
日本人は「公の意識」を背負っているから常に緊張している。
というのは、本当にその通りで、私が中国から日本に帰国した原因の一つに、
子どもにはこの日本的緊張感が自然と身につく環境にいてほしいという思いがありました。
しかし、近代以降の日本社会は、「公」の捉え方が違ったものになってきているのです。
自分自身の個は出さない方がいい。出してろくな事はない
口を出すと世の中を渡っていくのに ややこしい事が起こってきそうだ、
だから黙っていた方がいいというのは
とりわけ日本の場合にはそういう社会全体の雰囲気が
危機の時代を非常に悲劇的なものにしてきた
立憲国家は、人々、個々のつよい精神が必要なのです。
戦後日本はまだまだできていません。
新たな時代にむけて、日本人一人一人が確かな個を作り上げていかないと、
ふたたび国が亡ぶかもしれない。
今の日本では「協調」や「共生」が流行語のようにあちこちで言われているけれど、
みんなで一緒に!楽しくやりましょう!とか、
他者と当たり障りなく、事なかれ主義的なコミュニケーションすることと
協調とは違う。
むしろ、強い信念をもって、自立した個を確立した先に、本当の協調があると思います。
そこが失われているような気がしてなりません。
司馬さんは亡国の危機とまで感じていたのです。
宗教とは自分のなかの判断軸をつくるための哲学である。
多くの日本人は無宗教だと言いますが、それって世界中をみても特殊なことで、
しかも結構あやういことだとも思います。
日本人は宗教に対し偏見があるところがあって、
宗教=神さま、とか、スピリチュアルなものと見做され、
自分とは無関係だと思っている人がいます。
宗教は個が生きていく上での指標を作るもの。
人間の変わらぬ性(さが)に対し、生き方を考え抜いた先人の思考の集合知。
科学は、神の存在を証明しようと試みた人たちによって起った学問であり、
文明の進歩は強い宗教観に支えられているのです。
日本人は、何を根底にして個を創り上げるのか。
祖先が培ってきた精神を取り戻すために、何ができるのか。
日々のタスクをこなす忙しさの中で、思考停止している場合ではないように思います。
ちなみに私は、入国カードの宗教欄には「仏教」と書きます。
私の生き方は仏教から学ぶことが多いので。