世の中にありふれた理不尽へのむかい方。

事実とは違うことを耳にしたとき、

そして、声の大きい人が正義のように思われることに、ときとして怒りを覚える。

 

 

同じ対象でも、Aの地点とBの地点からでは見えるものが若干違う。

Aを無視してBの視点で第三者に物を述べるのはフェアじゃないので、

あえて黙して語らないこともあるんだけど、

A地点の見方が真実かのように吹聴されていることに怒りにも似た悲しみを覚える。

声を大きくしてかっこいいことを言い、他者を利用して正当化する。

なんて卑怯なんだ!と、とことん問い詰めたくもなる。

 

でも、そういうときこそ許して、手放すことが必要なんだと思う。

他者を下げたり悪としたりコントロールするのではなく、自身を切り替えることが大事なんだ。

と自分に言い聞かせてみる。

そういうものだと受け容れた上で、自身のあるべきようを考えることにエネルギーを割こう。

 

テレビの報道にも、社会の動きにも、同じものを感じる。

表に見えている、聞こえてくるものだけが全てじゃない。

利害を切り離し、周りがそうだからという同調をやめ、

自分で見極める力、本質を見抜く力を磨いていかないと、

この国はどうなってしまうんだろうとも思う。

それは批判精神を持つことであり、教養とはそのためにある。

 

理不尽な物事には怒りで返すのではなく、ビジョンをもって応えるのがいいと思う。