村上華岳にしてもそうですが、日本画家は道を追求する人が多いように思います。
美術とは目に見えない何かを形として表現することであるのならば、
美を追求する人はおのずと生きる道を追求するのでしょう。
画聖と呼ばれる鈴木空如(くうにょ)という画家がいました。
生涯5000にもわたる仏画を模写した、秋田県大仙市出身の画家です。
絵を描くというスキルは一流でありながらも、
画壇とは一線を画し、生涯にわたって仏画を描き続けた人です。
経済的に苦しい生活にあっても、名利を求めず
清貧を貫き通した人生には、感じ入るものがあります。
空如は法隆寺金堂壁画の実寸大模写を3回もしています。
法隆寺金堂壁画は大壁と小壁あわせて12画面あるのですが、
一面の高さが3メートルをこえる巨大な絵画です。
法隆寺金堂壁画の模写といえば、明治から昭和にかけて何度か行われていて、
数名の日本画家がそれぞれ数名の助手をつけて、
4班にわかれて実施するような一大プロジェクトでした。
それを空如はただ一人で、黙々と成し遂げたのです。
しかも3回も…!
誰に頼まれたわけでもなく、お金になる仕事でもないのに、ただひたすら写す。
何に突き動かされていたのでしょうか。
ろうそくの灯りのもと、暗い堂内で
一心不乱に模写している空如を見たという人がいます。
その姿はまるで仏のようであったと。
空如の3回目の模写といわれる作品が、大仙市に保管されています。
7年ぶりに12幅が一挙公開されるということで、見に行ってきました。
今まで、模写は模写だ。本物ではない。
とどこかで侮っていました。間違いでした。素晴らしい作品です。
法隆寺金堂壁画以外にも、空如は多くの仏画を模写しています。
その模写の対象であった原本には、現在は散逸していたり、
居処がわからなくなったりしている資料もあります。
空如の模写自体が貴重な資料であるといえます。
空如の画業の偉大さたるや。
もっともっと評価されてしかるべき偉人であると思いました。
空如は子煩悩だったようで、豊子という娘の育児日誌が残っています。
筆まめなんです。
豊子が5歳のときに描いた仏画も残っています。
5歳児らしい、色鮮やかで、のびのびしていて、天真爛漫な絵。
そんな豊子は3歳のときに発症した喘息が悪化、5歳で夭折してしまいます。
空如の悲しみは如何許りだったか。
庸医には病の原因がわからなかった、今はただ冥福を祈る、
という空如の言には、悲しみを押し殺しつつ有りのままを受け入れるような
切実たる思いを感じました。
空如は筆まめだったはずなのに、模写については日記などの記録を残していません。
仏画を描くことは個を無にすることだからでしょうか。
無名であることをあえて望んでいるように思います。
空如の法隆寺金堂壁画の模写には、
実物の写真や他の模写では確認できない線がいくつか見られます。
3回も模写していると、人には見えないものが見えてくるのか。
これが真眼というものか。
まとまりのない文章のまま、備忘録として感想でした。
空如の来歴についてはこちらが詳しいです。